代表者挨拶

代表者挨拶

絶望の労働運動から希望の労働運動へ

皆さんは、労働は苦しいものだと思いますか、それとも、楽しいものだと思いますか?

……下らない質問でしょうか?

しかし、私は、労働組合にとっていちばん大切なのは、労働は本来的に楽しいもの、つまり、他者に貢献するという名誉とそれによって賃金を得るという報酬を相伴うものであり、今直面している労働にそれらが欠けており、結論として”苦しい”ものである場合は、団体交渉を通じて、それを”楽しいもの”、”待ち遠しいもの”に変えていくことができるという確信だと考えます。

私が、現在はブラックユニオンとして有名になってしまったプレカリアートユニオンで(パートタイムの)専従をしていた頃に見てきたものは、労働に対する絶望がゆえに、ブラック企業以上にブラックになってしまった労働組合の姿でした。

会社員経験が皆無なのに労働運動を語り、組合の資金を横領して”白木屋”での飲食に汲々とする執行委員。組合員の尊厳がかかっている裁判の場で

「やる気が出ない」「解任してくれ」

とわめくブラック労弁。 それを目の当たりにして、腹を抱えて笑う経営法曹。

そのブラック労弁を組合員に紹介したのは、組合会計を隠蔽しながら、毎年700万円弱もの高額報酬を組合資産からぶん取り、高額の拠出金を得るためであれば、会社を辞めたくない組合員を

「意地を張るな」

と恫喝し、退職和解に持ち込む執行委員長……。

アーレントの言葉を借りるなら、

「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る」

のです。

彼らは、ひたすら不安で、怖いのでしょう。社会に出て働き、そこで、他者のために貢献できた分に応じて承認され、賃金をもらうという営み自体が。ひどく自信がないので、他者の評価という評価、意見という意見が恐ろしいのです。

それゆえ、社会人として働くこともできなければ、組合員と信頼関係を築き、民主的に組合活動をすることもできない。 そこにあるのは臆病な自尊心と尊大な羞恥心。飽くなき欲望、嫉妬、鬱屈した社会への不満……

労働に絶望し、労働を通じて正当に社会で評価されることを放棄すれば、人の生き方はこれほど醜悪なものになるということを、私はまだ知りませんでした。

ですが、社会で必要な商品とサービスが供給され、それを作り出した個人が正当に社会的承認を得るために労働が不可欠であるからこそ、私たちの憲法は、その場所を改善する目的において、労働組合の設立を承認したはずです。

しかし、現実のブラックユニオンは、幹部らの巨魁のような負の感情を発散するための手段として労働運動を位置づけ、右手では社会運動を掲げつつ、左手では、会社への街宣活動やビラ配りを

「私たちがやっているのは、合法的な嫌がらせなんですよ。」

(プレカリアートユニオン/清水直子氏談)と開き直る。 まさしく”社会運動標榜ゴロ”です。

その反社会性が、組合員を社会的に孤立させてゆき、職場の同僚からも距離を置かれ、おかしな人、怖い人、政治的な人と色目で見られてしまう。

ところが、マスコミは、ごく表面的なユニオン対ブラック企業の構図を捉え、見栄えが良い弁護士の記者会見にたかり、あたかも正義の味方のようにブラックユニオンを宣伝し、それによって、さらに被害者が増えています。

でも、私は、ブラックユニオンに入ってしまったことで、不本意に職場を追われてしまった人、未払賃金の消滅時効を迎えてしまった人を多く見てきました。

そこで、専従していたプレカリアートユニオンを不当に追放されたことを受け、それなら構わない、私たちで希望に満ちた労働組合を作ろうじゃないかと決心し、"プレカリアートユニオン組織内労組"をやめて結成されたのがDMU総研です。

私は、労働組合は、社会を憎み、つねに他人の欠点や失敗を見つけようとしているくせに自分には甘く、じつは楽をしてカネを稼ぎたいと思っているだけの人が、団体行動権を盾に会社に嫌がらせしてダダをこね、カネを引き出すための場所であってはならないと思います。

むしろ、社長よりも大きな夢を見て、同僚のために、顧客のために、こんなことを実現したい。会社がこうしてくれれば、こんなことだって実現できるはずだ。そして、その暁には、私はこれぐらいの賃金を頂戴して当然だと、堂々主張する場所でありたい。

他責思考に基づく負の感情を合法的な嫌がらせで発散し、組合活動をすればするほど職場や地域で孤立し、合法的なことをしているはずなのに、なぜか、多くの秘密と後ろ暗い気持ちを抱えて生活する。

そんなブラックな日常をもたらすブラックユニオンは脱退して、成長意欲と貢献意欲、共同体からの正当な承認に根ざしたホワイトな組合活動を手に取り、社長や総務が考えたこともないような暖かく豊かな職場のビジョンを描いて、団体交渉でぶつけてみませんか。

労働を、苦役ではなく、生産活動を通じて私たちを育んでくれた社会へ恩返しをするため、私たちが新たな知識と技能を身につけて成長するための手段と位置づける。

そして、それをより良い場所にしていくために会社と話し合い、ますます生産活動を捗らせる。その果実は当然、賃上げで大いに還元してもらう。

団体交渉を始めれば、会社と対立することもあるでしょう。訴訟にもつれ込む場合もあるでしょう。

しかしながら、最終的にはそんな光景を職場に描き出して、時には労使がお互いの家族のことを思いやり、時には共通の危険のために死力を尽くし、それに対しては応分の補償が法的義務からではなく同胞意識から自然と提供されるような、そんな職業生活を私はしたい。

職場は「選ぶ」のではなく「創る」もの

職場は「選ぶ」のではなく「創る」もの

私が思うところでは、また、労働法制の趣旨から理解するところでは、職場は、選ぶ、もしくは選ばれるものではありません。

入社してから、立場は違えど、お互いに話し合い、譲歩しながら作り上げる場所なのです。日本は外国に比して解雇が容易ではないと言われますが、その趣旨は、必ずしも労働者保護という経済的な要請だけではないと私は考えます。

立法者は、正社員であれば毎日8時間以上を共にする同労者に対して、労使という利害関係に囚われず人間として共感すること、誠実な話し合いによって利害を調整すること、すなわち、平和的共存のために最大限努力することを私たちに教えたのではないでしょうか。

進んで、そのような相互理解に基づく安心の中でこそ、労働者は率先して、同僚、上司、後輩、ひいては会社組織の利害を思いやり、しかも最大限の創意を発揮できるという真理を見出したのではないでしょうか。

ところが、ブラックユニオンが作り出してきたのは、労使の"階級的対立”と"合法的な嫌がらせ"を前提として、いつ懲戒処分や裁判が起こるとも分からないと怯え、相互に非違行為や不当労働行為の証拠を常時収集するような働き方、つまり、どんなに小さなプライベートな事柄でも口を滑らせれば嫌がらせの材料になりかねないとして口を閉ざし、まるでハリネズミのような気持ちで労務の提供と賃金の支払を粛々と履行するような労使関係です。

プレカリアートユニオンの清水直子氏は、このような労働の姿を、「プロ労働者」と位置づけて称揚していました。しかし、戦後民主主義のもとで誕生した労働三法が描いた労働の風景とは、あたかも社会生活から権利義務関係以外の全てをそぎ落としたような、かくも貧困な「プロ労働者」たちの姿だったのでしょうか?

私は、労働組合法が、団体交渉という話し合いそれ自体を使用者の義務として定めたのは、そうであってはならないという強い法意の表れだと理解しています。

労働組合は、人の生活の平穏を脅かす手段でもなければ、社会的に認められないことを法律を振りかざして正当化する手段でもありません。私は、組合活動に取り組んだ結果、いわゆる労働運動家であるよりも、労働法学者を目指したいと考えるようになりました。

今までの労働運動家は、「勝利」あるいは階級敵の「粉砕」にこだわり、労働問題が解決される場合であっても、無用に使用者を挑発し、無関係な第三者の感情を傷つけた後であったことから、結局は悪感情の連鎖を止めることができなかったのではないかと見ています。

例えば、プレカリアートユニオンの清水直子氏は、

「力とは、決定権を握る者に、彼らの好むと好まざるとにかかわらずYESと言わせる能力である」(http://shimizunaoko.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-9399.html)

と位置づけ、街宣車を買い、カネさえ出せば管理職の自宅にまで乗り込んで嫌がらせを繰り返す「リソース」(同氏談。ショッカーの戦闘員みたいな言い草ですが、組合員のことです)を抱え、そして清水直子氏自身も「力」が欲しいと考えたのか、アリさんマークの引越社の事件で億単位の金員が振り込まれて以来、正当な手続によらず、組合資産から毎年700万円以上もの高額報酬を着服するようになりました。

そんな清水直子氏のもとには、今や「合法的な嫌がらせ」を実施した会社や、カモにした組合員からの訴状が毎年何通も舞い込み、

「次は私たちだ」(清水直子氏談)

として公安警察の摘発に怯え、自宅には(ユニオンの経費で)監視カメラを設置しようとするありさまです。

労働組合の結成は、これほどまでに深刻な分断と対立を社会にもたらし、官憲の弾圧の目的となり、人々の憎悪と困惑を買うために認められたものなのでしょうか?

私は、法学徒として、決してそうではないと断言します。

周りの「人」を「仲間」へと変えていき、「仲間」だからこそ助け合い、結果として困窮している人が必要なときに助けられ、仲間のために大きな貢献をした人は賞讃を浴びる。それを安心と励みの拠り所にして、共同体そのものが活発になり、前へ前へと進んでいく。

そのような正のサイクルを職場で築きたいと望む仲間を迎えられることを、私は、何よりも楽しみにしています。

Shimon Miyagi Photo

Shimon Miyagi

平成8年、高知市生まれ。東京都板橋区育ち。
中学生の頃、『判例時報』に出会い、心なしか法律の世界を志す。高校時代は「裁判官を目指す」と豪語するも、なぜか、孔子にプラトン 、M.サンデル、そして池田晶子の哲学に惹かれたなどとして一切勉強をせず、裁判所Ⅲ種任用試験を面接で不合格になる。
そのため、やむを得ず国際基督教大学教養学部に進学するも、在学中は第二男子寮で頽廃的な生活に耽溺。しかも、F.ハイエクとA.スミス に没頭し、挙げ句の果てに旧友と会社を立ち上げるなどする。
松田浩道教授(憲法学)のゼミで卒業するが、結局は通信周りの会社に就職、現在2社目。
寛容かつ優秀な同僚と上司に恵まれた日常に感謝しつつ、組合の起案と団体交渉、司法書士試験の勉強、最近はサイクリングを頑張る日々を送る。座右の書は『道徳感情論』、『家栽の人』。

組合概要

組合概要

JR/営団日比谷線の秋葉原駅より徒歩7分。銀座線末広町駅より徒歩8分。

名称DMU総合研究所
本部事務所〒110-0016
東京都台東区台東1丁目7-8 東京ネクタイ会館3階
代表者執行委員長  宮 城 史 門
結成平成31年3月2日(デモクラティック・ユニオンとして)
法人成立の日令和元年10月10日
組合員数38名
TEL03-4221-0094
FAX043-330-3404
e-mailinfo@dmu.or.jp