サルとヒトにみる「壊れてしまった何か」の起源——『孤独の科学』(河出文庫/ジョン・T. カシオポ,ウィリアム・パトリック著)

隔離されて育ったメスは、母親としても無能だったり虐待的だったりした。
檻に入れられ、ほかのサルに触れることはできないが、姿を見ることも、匂いを嗅ぐことも、声を聞くこともできる状態で育った場合でさえ、過度に毛繕いをしたり、自分の体を抱きしめたり、自分の殻に引きこもったり、体を揺らしたりといった、神経科学者メアリー・カールソンのいう「自閉症様症候群」の様相を見せた。
カールソンが記者に述べたように、「仲間どうしが互いに関わり合う環境で育たない限り、ほんとうのサルにはならなかった」のだ。

p204,『孤独の科学——人はなぜ寂しくなるのか』

『孤独の科学』を読み、衝撃を受けました。

そこで紹介されていた、母ザルから引き離されて育ったサルの様々な異常行動のパターンが、ブラックユニオンの執行委員たちに見られる強迫的、衝動的な行動パターンに似ていたからです。

私が知るブラックユニオンの「執行委員会」は、法人の、しかも、その役員の会議としては異常なものでした。

そもそも、労働組合の執行委員会なのに、なぜか、メンバーに無職の者や、職場で孤立している(ある執行委員のせいで、支部員が全員脱退したという話も聞いたことがあります)者が多いのです。そして、衝動的な行動や、客観性を欠いた行動、攻撃的な行動が多々見られました。

特に印象深いブラックユニオン執行委員のA氏は、「今度のカフェバーでは、絶対に流しそうめんをやる。」と宣言し(もっとも、執行委員会のメンバー以外は、3、4人しか来ないのですが)、執行委員会の会議室に長さ3メートルほどの竹を持ち込むと、会議の最中であるにも関わらず、おもむろ竹を削り始めたのです(!)

A氏は、執行委員会に顔を出すと、いつも、入ったばかりの会社を辞めた話や職安に行った話をしており、職場と職安を行ったり来たりしている様子が窺えました。

別の執行委員B氏も、ひどく衝動的な人物でした。

あるとき、私が「次回のカフェバーでは、東村山名産の黒焼きそばを作ってみたい」と提案すると、B氏は、私の黒焼きそばにホットプレートが奪われると考えたためか、激怒し、執行委員会の場で、「だから、俺は、絶対にタコ焼きを作る!!」と絶叫したのです。

ところが、B氏は、当日までタコ焼きの仕込みはしなかったようで、カフェバーの開催直前にあたふたとキッチンで具材を用意している有り様でした。口は盛んに動くのですが手は中々動かないのです。

そして、F氏という書記長がいましたが、彼の行動にも強迫性を見ることができました。

仕事の最中に、何かのおまじないなのでしょうか、毎日のように、色とりどりのグミを机の上に色分けして並べ………時には突然、頭をかきむしり始めることもありました。私も、幼稚園の頃はミニカーやおはじきを並べて遊んだ覚えがありますが、それ以降は、ただ目的もなく物を並べるという行為を、しかも職場や人前でしたことはありません。

こうした衝動的、強迫的なメンバーの他には、狡猾なメンバーがいました。

このブラックユニオンでは、組合員の労働問題が金銭で解決すると、その20%を「拠出金」として取っており、現在はそれが訴訟問題に発展しているのですが、執行委員C氏は、自らは役員として「拠出金」を組合員から取り、それを飲食費などに充てておきながら、自らの勤務先との労働問題で数百万円の解決金を得ると、安価なパソコン2台をユニオンにカンパしただけで、とうとう拠出金は一円も支払いませんでした。

C氏は社労士の資格も保持している優秀な女性です。私はこれを見て、ユニオンも「資本主義」や「ブラック企業」と同様、ルールを作る側と、何も知らされないまま”ルール”に隷属する側に二分されているのだと実感しました。

衝動強迫と隔離されたサル

サルの話に戻ります。

本書で、隔離されたサルに関する実験と、これに続く「チャウシェスクの子供たち」の話を読んで、真っ先にブラックユニオンの指導者たちのことを思い出した理由は、布製やワイヤー製の「代理母」と人工母乳で育てられたサルたちに特有の「群れに戻された後も、一匹で座り込んで身体を前後に揺らしていた」という異常行動のパターンが、ブラックユニオンの執行委員たちが何らかの葛藤に襲われたときに見せる行動パターン——目の焦点を上ずらせて白黒させ、身体が不自然にプルプルと左右、または前後に揺れる——と酷似していたからです。

私が最初にこの行動パターンを目撃したのは、裁判所の前で、ブラックユニオンの執行委員長を名乗っていたD氏に対し、組合員の労働問題の解決金をユニオンが会社から直接取るのはおかしい、一度組合員に引き渡してから「拠出金」の納入をお願いすべきだ、と抗議したときでした。

D氏は、「だって、組合のお金ですから。」などと言いながら、顔を上気させ、後ずさりし、そしてプルプルと震えていたのです。その目は私を正視しておらず、D氏に後ろ暗いことをしているという自覚があることを示唆していました。

次にこの行動パターンを目撃したのは、別の執行委員であるE氏が、B氏の「脱退届」を偽造してユニオンにファクシミリを送ったことを、私に対して白状したときのことです。E氏は、この時もなぜか、身体を左右にブルブルと震わせながら、「私がやりました」と絶叫していました。

多くの人にとって、悪事を白状する瞬間といえば、ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』のような神妙な場面となるのではないでしょうか?

しかし、ブラックユニオンの執行委員たちには、なぜかプルプルと不自然に震え、こちらの目を正視しない(目線が泳いでいる)、という共通の特徴が見られました。

ブラックユニオンとの団体交渉に臨んだ経験のある使用者、弁護士に尋ねても、やはり、(彼らが所属するサラリーマンの社会や、士業者の世界と比べて)「異常な言動だった」「話が通じない」「攻撃的」といった感想が目立ちます。

私に言わせれば、あうんの呼吸と言いますか、「ここはこうするからさ……」「……わかったよ、そうしよう」といった魚心あれば水心のコミュニケーション(これが団体交渉の真髄だと思いますが)ができず、白か黒か、勝つか負けるかの「正しさ」を畳みかけてくる「コミュニケーション」しかできないのです。

そうして、その周囲には、それを「カッコイイ」と信じ、憧れる、ワナビーの労働者が群がります。「裁かれ」続け、「損」ばかり押し付けられてきた社会の中で、この「組合活動」ならば「力関係」を逆転させられる、「裁く」側、「得る」側、「持つ」側に回れるという幻想を見るのでしょう。

しかし、そうした「ワナビー」のSNSを調べてみると、社会人としてあり得ないような歌や踊りを得々とアップロードしている様子などがわかり、とにかく驚きます。いずれにせよ、ブラックユニオンは、社会において評価されず、何も生み出すことができなかった人同士のコミュニティーにおいて、不合理かつ破壊的な「力」への憧れを軸として形成されていくのです(学校社会との関係においていえば、半グレ集団やチーマーの形成プロセスとよく似ています)。

本書の記載の中でも特に印象深いのが、

ほかのサルとも引き離されて育ったサルは、異常な(それもしばしば深刻な)行動も目立ち、回復することはなかった。このようなサルは、群れに戻された後も、一匹で座り込んで体を前後に揺らしていた。遊び相手に対しても過度に攻撃的になり、その後もずっと正常な絆を結ぶことができなかった。
実際、彼らは社会的な能力が欠けており、その欠陥は生物としてのもっとも基本的な行動にまで及んでいた。

同書203pより

という指摘でした。

D氏は、家庭崩壊に等しい環境の中で実父の暴力を受けて育ったことを新聞のインタビュー記事において公言しています。この問題について必要以上に立ち入る気はありませんが、たしかにブラックユニオンの執行委員からは、家族関係が円満だという話を一度も聞いたことがありません。

これらのことをサルの話と並列して考えていくと、ブラックユニオンの幹部に特有の異常行動のパターンには、思春期までの成長過程や情動の発達に原因があるように思えてなりませんでした。

制裁と包摂と

つい最近まで、私は、ブラックユニオンとの闘いのスローガンとして「社会からの権利停止処分」を掲げ、地域社会と労使が一致団結して職場に「悪意の文化」を持ち込むブラックユニオンを撃退し、この社会には一切居場所がないという「事実」を「突きつける」べきだと信じていました。

しかし、そのような「事実」を文字情報として「突きつけられ」続けたブラックユニオンの関係者たちは、「権利停止処分」を受け入れて社会から退場するどころか、精神の破綻をきたし、インターネット・電子メールでの誹謗中傷、粟野興産事件を始めとする数々の企業への不当要求行為(裁判費用でお金が必要なためか、むしろエスカレートしているようです)などで社会に迷惑をかけ続けたままの状態で社会に「在り」つづけ、もはや誰も手を付けられないぐらいおかしくなってしまう様子を目撃し、考えを変えざるを得なくなりました。

確かに、全ての人に生存権を承認する日本国憲法下において、「社会からの権利停止処分」という発想は傲慢で、かつ非現実的でありました。

本来的には、ブラックユニオンに対して、「じつは、ブラック企業ではなく、君らの人生こそが『ブラック』なのだ」ということばを突きつけ、真実の”火炎放射”によって彼らが拠り所(居場所)とする幻想を焼き払うような「闘い」ではなく、ブラックな過去から「引き返す」選択肢を提示し、手を引いてあげるような「闘い」が必要だったのかもしれません。例えば、受刑者の社会復帰プログラムのように。

そんな思いが去来するとともに、「群れに戻された後も……回復することはなかった」という本書の指摘が重く横たわりました。私たちが「闘い方」を変えれば、ブラックユニオンは変われるのでしょうか。裁判所による社会的制裁以外の選択肢が果たしてあるのでしょうか?

どこか非現実的な、空のほう(上方)からの刺激に反応して目をチカチカさせるような、空虚で、うつろな瞳をしばしば見せる点で、D氏とE氏はよく似ていました。

年齢も近いこの2人ですが、今思えば、サルであれヒトであれ、決して無限の可塑性(やり直す可能性)を持っているわけではないという事実を直視し、私のような若僧が、それを「変えよう」とは思わない方が賢明だったのかも知れませんが………

ブラックユニオンの問題が今後どう展開するかについては、利害関係者が多くなったため、今や、私でさえも闘い全体をコントロールする権限は有しておらず、天運に委ねるしかないところが大きいのが現実です。

ただし、ひとつ確かなのは、サルであれヒトであれ、私たちの社会で、「感覚的な心地よさ」からも「ほかのサル」からも引き離されるような育ち方を余儀なくされる子供は、これからは、たったの一人たりとも生み出してはならないということです。

ブラックユニオンの暴力的な衝動と関係者の精神的被害について、このブログで公表できることは氷山の一角に過ぎません。

ブラックユニオンによる反社会的活動を”制圧”するために活動する私たちと各企業が蒙っている被害の深刻さを知っている関係者であれば、孤立という体験に対して、それを権力の獲得によって克服するという誤った「処方箋」が「労働運動」と称して集団的に実行に移されるとき(ブラック企業経営者の発想と瓜二つです)、どれだけ多くの人が巻き込まれ、傷つき、築き上げてきたものを失うことになるか理解して頂けると思います。

ブラックユニオンの問題は労働法の歴史において決して繰り返してはならないものですが、その漆黒の歴史の起源は、他の誰でもなく私たち自身の他者に対する無関心なのです。私たちの無関心のために「壊れてしまった何か」を、どうして、当の私たちが(少なくとも心情の上で)裁くことができるでしょうか。

私たちの理念である「職業愛と相互尊重」とは相反する、自分たちを認めてくれなかった社会を否定したい、破壊したい、暴力を行使する瞬間において自らの「力」を実感したいというブラックユニオン特有の衝動強迫は、現代の「チャウシェスクの子供たち」による、無関心で冷酷な社会への復讐のようにも見えます。

表題に含まれる「壊れてしまった何か」という表現の出典に関しては、この記事をご覧ください。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)