プレカリアートユニオン総会決議不存在確認等請求事件の次回期日が、再来週・8月16日(月)に迫りつつあります。当期日では、裁判所による争点整理表も作成されることになり、いよいよ審理も大詰めの感がございます。
ここで、(記事全体が長くなりすぎ、注目されづらかった)提訴当時の報告記事である変われるか労働組合——プレカリアートユニオン総会決議不存在確認等請求事件・提訴のご報告の附録である随筆文、「プレカリアートユニオン総会決議不存在確認等請求事件によせて」を再掲載させて頂きたく存じます。
提訴当時から、早くも、1年3ヶ月もの時間が過ぎようとしています。
当時は、今現在のように補助参加して下さる企業や労働者、あるいは本件の代理人を引き受けてくれる弁護士の当てもなく、新卒で入社した企業での長時間にわたる研修と勤務の傍ら、酒を断ち、寸暇を惜しんで訴状を書き上げ、令和2年6月11日午後11時半頃、ついにロードバイクで東京地方裁判所の深夜受付に駆けつけ、訴状提出をした思い出がございます。
その興奮冷めやらぬうちに書き上げた下記随筆となりますが、今読み返してみても、ブラックユニオンの問題点と労働及び労働事件の捉え方に関する弊所の信念が要約されており、当時は、”労働組合”という伝統的な概念を未だ信じており、この点で現在とは前提を異にすることを措いてなお、発信に値する文書であると自負を新たにした次第です。
総会決議不存在確認等請求事件も、今や2名もの弁護士の先生に代理人を引き受けて頂いたばかりか、株式会社ファーストボーイ様、医療法人社団雄仁会様、粟野興産株式会社様(但し順不同)と多数の企業様に補助参加人として参戦して頂きました。
他にも、株式会社クローバー様においては、本訴訟の係属を理由に、プレカリアートユニオンによる、社長を「壊れてしまった何か」等と個人攻撃し誹謗する不当要求行為のいっさいを一蹴し、クローバーの社内労組のUAゼンセン様にも、法不適合組合であるプレカリアートユニオンとの協約締結は許さない旨の会社宛通知書という形で加勢を頂き、まさに労働界を揺るがす大事件へと発展しております。
本事件をきっかけとして、人間相互の世界に、信頼と愛情の輪をつなぐための真っ当な労働法解釈が優勢となり、街宣車等で職場を破壊すること、管理職者を離婚に追い込むことなどを脅迫の材料として利用し、つまるところ労働者ですらない無職者・活動家が、私たち市民(労働者・経営者・消費者)を脅かし、欺き、社会から働かずに金品を喝取・詐取することをその実態としていた「ブラックユニオン」、そして、高額の報酬・金品を対価として陰に陽にブラックユニオンを支援し、本来弁護すべきではない事件を受任し活動してきた悪徳弁護士たち——「ブラック労弁」が、いずれもこの地上から永遠に除去され、誰もがこの社会に生を享けて良かったと思えるような、働く喜びに溢れる産業社会発展の基礎となることを切に願います。
プレカリアートユニオン総会決議不存在確認等請求事件によせて
プレカリアートユニオンが、労働組合でありがなら残業代を一切支払わず、障害を抱えたアルバイトのT君を時給400円で働かせ、しかも「アルバイトは労働者ではない」という理由で団交拒否に及び、そして、名古屋管理職ユニオン事件において16%の拠出金が「高額に過ぎる」として違法・無効であると判示さているにもかかわらず、20%もの拠出金と「費用」(清水直子氏談)を取り、しかもプレカリアートユニオンが訴えられた裁判の費用を組合員個人に支払わせるという常識では理解できない強欲さを示したことを契機として明るみに出た「ブラックユニオン」の問題は、今や週刊新潮をはじめとする各紙に取り上げられ、社会問題へと発展しています。
私は、このまま、労働組合そのものに「よく分からないけれども危険な団体」「いつも言いがかりをつけて騒いでいる怖い団体」というイメージが定着してしまい、職場や家族といった関係性の中で、堂々と組合活動の話ができなくなるのが恐ろしくてなりません。
ところが、現実には、(60年安保の当時にはその時代の情念があり、許容されていたと思いますが)時勢の変化を理解できず、また別に活躍の場を見つけることもできず、未だに旧来の”運動”のスタイルにこだわっている「変な人」、特定の政党やセクトの構成員や利害関係者という「金目の人」が労働運動のコアな部分を支配していて、そこに、あまりにも社会性が無いので会社員としてやっていけず、しかも、それを開き直っている「怖い人」が居場所探しの末に巻き取られる形で関わっていき”団結”する、そうした光景が、少なくとも、ユニオン運動センターに居た私には映ります。
社会から孤立、“サティアン”に成り下がったブラックユニオン
ブラックユニオンは、”団結”しているつもりで、実際には、社会から閉じて”孤立”した集団に成り下がっていたのではないでしょうか。そうであれば、その事務所は、いわば”サティアン”ということになります。組合員に公開義務のある会計を公開しない、民主的な運営を提言すると”罪状ペーパー”や暴力、盗聴・盗撮を含む手段で排除しにかかる。
”サティアン”の内奥で、都合の悪い脱会者や被害者の会を率いる弁護士の”ポア”を命じる”グル”と、その手下たちの関係に瓜二つです。社会大衆が、このような恐るべき暴力的な集団を恐れ、同時に軽蔑していることに、当の本人だけが気付いていません。ここでも、件の”グル”たちが一時期、何を勘違いしたのか都内を始めとする各地で勇躍選挙戦に打って出て、みごと全員落選したという史実と重なります。
一般人の理解が及ばない孤立した集団として軽蔑されているブラックユニオンが「勝利」また「解決」と喧伝する労働争議も、会社からすれば、頭がおかしい人たちに絡まれてしまったので、手切金を支払った方が経済的に合理的だから、株主利益のためにそうしているというだけのことです。
職場で不当な解雇を受けたとき、不当な懲戒処分を受けたとき、それによって職場の仲間や家族の信頼を失ったとき、そして尊厳ある個人としての歴史を汚染された時の損失は、決して、たかだか数ヶ月〜数年分の賃金を得ることによって埋め合わせられるものではありません。
私は、プレカリアートユニオンのために働いていた立場ですが、未だに、不本意な退職和解の何が「解決」「勝利」なのか理解できません。清水直子氏は、組合員に「意地を張るな。」と恫喝して退職和解にサインさせようとしたことがありますが、目先の拠出金に目がくらんだのでしょうか。職場での人間関係があり、同僚と信頼関係を築いて働いた経験が一度でもあれば、こうしたことは絶対にできないはずです。
プレカリアートユニオンで、清水直子氏に迫られ、意に反して退職和解に追い込まれる人を私は見てきましたし、今現在も被害の相談に乗っていますが、このことを清水さんに指摘すると、恐らく、「会社が執拗に退職を提案してくるから、当該を説得しているに過ぎない。何が悪いんですか。」と言ってくることでしょう。
そういえば、復職して会社を良くしたいとして3年間も闘ったアリさんマークの引越社の事件も、争議を支えてきた組合員に何らの説明もされないまま、有村さんは退職和解をして消えてしまいました。
プレカリアートユニオンに噛みつかれた会社が執拗に退職和解にこだわるのも、まるで”サティアン”のようなブラックユニオンの体質と無関係ではありません。私に対して、事務所に貼り出しただけでなく、全国に500枚、マスコミや他の労組にまで送りつけた「罪状ペーパー」。暴力。そして盗聴・盗撮、生活保護のアウティング。
プレカリアートユニオン・清水直子氏が弊所の仲間に仕掛けてきた嫌がらせは枚挙に暇がありませんが、まるで息を吸うように常識では考えられない嫌がらせを繰り返すような団体の構成員が会社に毎日来て、8時間もそこに居るというのは、品性と社会常識のある会社なら耐えられることではないでしょう。
その結果、会社が、気持ち悪さに耐えかねて手切金を払い組合員を退職させるのを「勝利」「解決」と呼んではしゃいだり、清水直子氏のように700万円近い”行動費”をもらっていないのに抗議活動を手伝ってくれる良心的な組合員を”リソース”と呼んでみたり、手切金を早く払わせるために会社に押しかけて騒ぐ作業を「合法的な嫌がらせ」と自ら豪語したりするのでは、もはやお話になりません。
労働組合には、ブラックユニオンのせいで、あたかも特殊で、一部の政治的な人や過激な人が暴れるための団体だというイメージが付いてしまいました。他方で、クリーンで安全ななイメージの労働組合は、大部分が、組合費だけをとって幹部が豪遊し、残金は政治活動に充てられる所謂”御用組合”です。
”ベンチャー”より共感に基づく当たり前の組合活動を
しかし、労働組合は、本来、特殊な人のための組織ではありません。
私も最近気がついたのですが、人間にとって、苦境に陥っている人や問題を抱えて困っている人の立場に同情し、可能であれば直ぐにでも助けの手を差し伸べたいと感じるのは、ごく普通のことです。
実際に私たちは、親族の中で、地域の中で、また職場で、いつもそう感じているはずです。
特定のコミュニティの構成員でなくても、例えばスーパーや駅で困っているお年寄りを見つけたら、なるべく助けようとしますよね。労働組合も、職場に支部がある場合とない場合とを問わず、そのような平凡な倫理観を発揮して他者の役に立ち、それによって感謝される、仲間が増えるという、どこまでも平凡な団体であってもよいのではないでしょうか。
そうなれば、ごく当然の良識を持った信頼できる仲間が増え、多種多様な知見が組合に集まりますし、これは重要だと思うのですが、組合活動という居場所があることで、会社での経営者側からの評価や上司の機嫌に一喜一憂させらることもなく、労使関係という経済的な利害がない場所で社会的評価を確立する機会が得られます。
このことは、表面的な損得以前の問題として、精神的に非常に健全なのではないかと思います。
会社には、どんなに良心的な経営者によるものであっても、多かれ少なかれ経営権の失敗を労働者の能力や努力の問題にすり替え、査定や面談の度に、「評価とは、会社がするものだ。」などとして、現場のことは何も知らないのに、労働者の話も聞かずに”評価”を押し付けてくる傾向があります。
これは、特に零細・中小企業であればあるほど、経営陣も株主や取引先から同じような態度を取られているので仕方がないという側面があるのですが、私たち市民の相互の信頼と互助によって、いつかは変えていきたい問題です。
さりとて、そんな時、同じ立場の労働組合の仲間から信頼され、必要とされているという自負は、どれほど心強いものでしょうか!しかしながら、経済的な基盤は引き続き職業生活に求めることが、組合の財政をクリアにすることに繋がるでしょう。
ところで、清水直子氏は、自ら私物化したプレカリアートユニオンを「労働組合のベンチャー」であると自称していました。「合法的な嫌がらせ」の手段としての団体行動権、労組法の歴史の中で、多くの労働組合が苦心して確立・固守してきた組合民主主義の破壊、そして”経営陣”の高額役員報酬……実に言い得て妙だと感じます。
しかし、(法律を守っている)ベンチャー企業が、業界の常識やテクノロジーの限界を破壊して成長し、その冒険的な挑戦のリスクに対する正当な果実を労使と株主が分配する組織であるのに対して(製薬業界などで顕著といえます)、プレカリアートユニオンが破壊しているのは、組合民主主義の法理(≒労働組合法)と最低賃金法、それに、慎ましく暮らしている社会大衆の平穏な生活に対する希望、さらには、十分な教育と文化的資産、即ち教養に基づく人間の健全な共感性に他なりません。
しかも、ベンチャー企業は、その冒険性の高さゆえに、往々にして事業に失敗し、財政基盤が脆弱であることから、ちょっとした計画違いであっさりと倒産します。財閥や商社がバックに居るような企業とは根本的に性質が違うのです。
倒産すると、事業計画を信じて出資した株主、金融機関、経営陣の全員が役割に応じて責任を取り、取引先に頭を下げ、解雇せざるを得なくなった従業員に謝罪し、分配する財産がないのに債権者集会を開き、つるし上げを受け、いわば”落とし前”のためだけに破産宣告を受けることもあります。
原発で除染作業をする労働者の賃金が一般的な労働者の賃金よりも高いのと同様に、ベンチャー企業の高額な配当、報酬、賃金には、そのリスク負担に対する危険手当という側面があります(もっとも、原発労働者の賃金は、それでも不十分だと感じているところです)。
ところが、清水直子氏は、プレカリアートユニオンの大会の代議員を全員指名し、会計を一切公開せず、自らが得ている役員報酬の金額も組合員に秘匿しています。
これでは、経営陣が株主を指名する株主総会のようなもので、要するに、どんなに愚かで重大な失敗をしでかしても、一切責任を問われないのです。
団体交渉に失敗しても、解雇されるのは組合員、弁護士費用を払う羽目になるのも組合員です。時には、プレカリアートユニオンが訴えられた裁判の費用まで脅し取られます。
私自身、プレカリアートユニオンと共同で被告(債務者)になった仮処分申請の費用を折半にしてほしいと申し出たところ、「それなら、組合との関係を考え直さざるを得ない。」と脅され、支払う義務のない弁護士費用を負担させられました。
このように、冒険に伴うリスクとコストは組合員に押し付け、どのような失敗をしても責任を問われず、もっぱら組合員の雇用を危険に晒し、時には売り飛ばし、組合の資産という他人のふんどしで相撲を取る清水直子氏の、果たして何が”ベンチャー”なのでしょうか。
私も、若かった頃、ひょっとした弾みから旧知の友人と小さな会社を立ち上げたことがありましたが、応分のリスクを取り、幸いにして会社は今も他人の手に渡り存続していますが、経営の過程で迷惑をかけた方には当然、頭を下げて回りました。
他人のふんどしで相撲を取ったことはありません。
むしろ、拾い切れなかった責任のことを思い出すと、今でも悔やまれるぐらいです。しかし、これも別段に殊勝なことではなく、むしろ人間として当たり前の感覚だと考えています。
そのような人間として当然の共感性を有しておらず、”ベンチャー”を標榜しながら他人のふんどしで相撲を取り、正当な決議なく高額な役員報酬を懐に収め、組合員を”アンダーグラウンドの話し合い”(清水直子氏談)で退職和解に追い込み、職場と生活を破壊する清水直子氏のことは、残念でなりません。
”労働組合”——愛すべき小社会のために
令和元年6月23日、臨時大会に出席するため、久しぶりに立ち入ったユニオン運動センターの会議室で私たち原告が目の当たりにした光景は、まさに、人間としての理性と良心の全てがうち捨てられ、自覚なきままにサティアンと化した”労働組合”の姿でした。
私は、平成28年以来の組合員として、あれがプレカリアートユニオンの”大会”だと認めることはできません。
労働組合は、良心を失い、健全かつ正当な手段で社会から評価されることを放棄し、目の前の”グル”にすがりつく哀れなアイヒマンたちの”総統地下壕”であってはならない。
職場において誰よりも尊敬され、会社を牽引していくような、時には、”合理的”もとい短絡的な利害に思考を囚われた経営者にビジョンを叩きつけることもできるような、プライドと希望に満ち溢れた勤労者の団体でなくてはならないのです。
そんな”労働組合”という愛すべき小社会、その名誉に重大な汚点を残しかねないプレカリアートユニオン・清水直子氏らが一方的に開催した「大会」が、労働運動の歴史としても、法的効果としても”不存在”であることを確認するべく、提訴に及びました。
令和2年6月12日