弊所傘下組合員2名※が、「#変われるか労働組合」を合い言葉に、ブラックユニオンとして著名なプレカリアートユニオンを提訴した総会決議不存在確認請求等請求事件。
8月16日、第6回口頭弁論期日が開催され、第7回口頭弁論及び進行協議期日が指定されましたので、ご報告します。
東京地方裁判所民事第11(労働)部に係 令和2年(ワ)第14565号
総会決議不存在確認等請求事件
【当事者の表示】
原 告 宮 城 史 門
原告補助参加人 株式会社ファーストボーイ
原告補助参加人 粟野興産株式会社
原告補助参加人 医療法人社団雄仁会
被 告 プレカリアートユニオン
【第7回口頭弁論及び進行協議指定期日】
令和3年9月13日(月)午後3時30分〜 517号法廷<公開>
次回期日まで、原被告はいずれも新たな主張立証をしないものとされており、引き続き、裁判所が主体となって今後の進行を指揮することとなりました。
また、裁判所より争点整理表及び役員身分整理表が提示され、双方この内容に異議等があれば速やかに申し出る事となりました。赤字部分は、裁判体が特に関心を持っている事項ということです。
ちなみに、先日、私たちが、被告プレカリアートユニオンの執行委員が退職和解で失職しており、無職になっている証拠を提出をしたところ、これを「窃盗罪だ!」と誹謗、法廷で絶叫した被告代理人弁護士ですが、その後裁判所に対し提出を約束したはずの「窃盗罪」の根拠等(証拠能力を争う具体的理由)を結局提出しませんでした。
ブラックな悪意と敗北、劣等感にまみれた人生。そして、それらが「団結」したブラックな「ユニオン」。さらに、それを中心として金品によって繋がり、連なるブラックな悪徳弁護士……この真っ黒な連鎖を本訴訟を通じ終わりにすることには、殊の外大きな意義があると信じてやみません。
現在までの原被告間の訴状・準備書面は、こちらのタグから一覧可能です。
社会に出ざるもの、社会を語るべからず
ブラックユニオンを含む社会運動に見られる巧妙に偽装された悪意について、最近よく考えることがございます。
例えば、近日は化粧品会社のDHCについて、DHC社の問題以前からTwitter等で毎日のように他人を批判する言説を発信しているアカウントによる、取引先へのクレームの集中攻撃や取引停止依頼などの集団行動が目に付きます。
もちろん、差別発言は好ましくないことであり、その主体が権力者や大企業であるほど、批判に値するというのは、当然のことです。
他方で、社会において責任ある地位を担っている、もしくは今後担おうとする人であれば、DHC社のみならず、「差別的」と目された各社や有名人等をインターネットでわざわざ発見し攻撃する余裕といったものは、ある意味で全くないのではないかと思います。
生産的に生きている人の周囲には、他人、社会の悪事あるいは問題点のリストを求めている人はいません。
その人自身が職業的に大きなことを達成し、活躍することを期待している人が多いため、いきおい、他人の問題点よりも自己の可能性について考え、遠くにいる顔も名前も知らない悪い人に勝利するというよりも、様々なことを学んで成長する事でかつての自分自身に勝利し、周囲の期待に応えるため、日夜、克己心をもって闘わざるを得ないのです。
このことは、ブラックユニオンとブラック企業(とされている企業)との関係性にも同じことがいえると思います。
労働基準法違反や長時間労働は勿論(それだけを取り上げれば)「悪い」ことですが、自分たちが会社を経営するわけでも(経営経験があるわけでも)なく、また、自ら労働に従事するわけでもなく、ただ「活動家」として、ほうぼうの会社の労働法違反だけをマニアックに”摘発”し、あげつらい、社会運動云々と言いながら最終的には「解決金」と称し金品を要求するというのは、果たして社会的に正しい事なのでしょうか。
つまり、私たち社会人は、労働法に違反することが良いことではないなどということは、誰に言われるまでもなく、分かりきっているのです。
それでも、何でもかんでも法律通りにするということはできなかったり、そうすべきではなかったりする理由が色々とあるのですが、それを全て文書で列挙するわけにはいかないので、お互いに空気を読み、陰に陽にメッセージを送り合って、無言のうちに意思疎通を図り、良識の範囲内で全体的な調和を保っているというのが社会の現実ではないかと思います。
そのような社会の調和と統合の現実を俯瞰的に理解した上で、尚許されるべきではない常軌を逸した搾取の阻止、そして社会的弱者の救済をする、そういう方向性であってこそ、労働運動は社会的に広範な支持を得ることができるはずです。
その上で、社会運動をやるというからこそ、自分自身が誰よりも立派な社会生活をする。労働組合の委員長をやるというなら、誰よりも立派な労働をまずはやる。
会社を経営する可能性も、社会人として胸を張って働く可能性も失われた——社会に入れて貰えなかった——ブラックな人生の代償要求を本質とする歪んだルサンチマンのはけ口としての「正義」、現実的な感覚、関係者の感情を無視した官僚的な法解釈に基づく「正義」、そして、自分自身が実践できないことを他人にだけ要求する「正義」といった、憎しみが擬態した諸々の偽りの「正義」を克服し、何よりも他人より自分に厳しくあってこそ、プライドをもって世間様に堂々と説明できる本物の正義に到達しうるものと思われます。
この点、ブラックユニオンは、その運営者がそもそも労働者ではない生粋の”活動家”であることが明らかになっています。そもそもが労働者ではなく、会社員として労働の現場を背負ったことがない者に、「職場を変える」ことや「社会を変える」ことができるのでしょうか。経営者達は、会社を経営したことがないどころか、会社員として働いた経験がない外部ユニオンの「要求」に耳を傾けるのでしょうか。
また、私たち社会人の総意は、そのような者たちが社会を変える主体になることを望み、或いは許容しているのでしょうか。
私が思うところでは、その答えは「No!」となります。
社会に出たことがない者が、美辞麗句を並べ、社会を変えるなどと称して街宣車を繰り出し企業を恐喝、労働者≒組合員も最後には裏切り、双方から喝取した金品をアメリカ旅行で浪費・・・
「社会を舐めるな!」と一括する誰かが必要であることは火を見るよりも明らかです。
人間は、世界に関する知識を何も持たずに生まれ、また、同意なく世界から去って行く存在でありますが、そうであるからこそ、私たちの使命は、後進のために豊かな知識を遺し、また模範を示すことであるといえるのではないでしょうか。
自ら実施するのではない一般論としての法の遵守、善行、利他的行為を語ること、他人の欠点のリストを作り他人を誹謗することは簡単ですが、その程度では、私たちの社会を「変える」資格を得るために到底十分とはいえません。
社会を変えうる立場に立つ、私たちの代表者になろうとする知恵有る人々に大衆が期待するのは、他人の為すべき正義を語ることではなく、その正義を自ら実践することで、正義が、観念的な理想に留まるものではなく、現実でもあり得ると力強く示すことはないでしょうか。
これは、「誰であっても、後世に勇敢な生を遺することはできる」と説いた故・内村鑑三の所説にも合致するところであり、かつ、誰もが、所与の運命の中で最大限の勇気を発揮することで実際に社会を変えることができるという現実的な希望の基礎になるものと思われます。
以上を踏まえ、私たちは、補助参加人様と共同して、非社会人による反社会的活動の母艦であるブラックユニオンを包囲し、良識ある社会を代表して、「これ以上、私たちが大切にしてきたものを踏みにじるな!」「何かを創り出す苦労を知らないのに、社会を変えるなどと軽々に口にするな!」という社会人の総意、生活者の本音を突きつけ、ブラックユニオン活動家らに絶大かつ覆しがたいレッドカードを言渡します。
そして、社会よりも、先ずは活動家たち自身を”変えて”頂くべく、企業及び労働者からの恐喝を即刻中止し、産業社会から退場の上、真面目な就職活動・社会復帰に専念して頂くことを求め、法廷内外での責任追及を一層強化して実施致します。