DMU運動の意義・目的を考える(オピニオン)

 

この場を借り、私たちDMUの運動目的やその意義について、改めて説明してみたい。といっても、実質的に代表者・前田の労働運動論という性格を持ってしまうことは避けがたく、その限度において問題を孕む投稿であるが、この際ご容赦願いたい。

労働契約の特性

労働組合がその活動の根拠、もとい存在意義とする「労働契約」または民法上の「雇用契約」は、他の有償契約には見られない特性を有している。

そのひとつは、労働力という商品は、売り惜しみがきかないということだ。他のいかなる商品でも、生産者や販売者は、みな(広義の)売り惜しみをすることによって、適正かそれ以上の利益水準を維持している。

日本でも、例えばキャベツが豊作になると、一帯の農家がこぞってブルドーザーを持ち出し、畑に埋めることになっているが、労働力は労働者が市場に提供できる唯一の財である以上、一部の者が労働力を放棄し、他の者が労働するということはできない。キャベツ農家は別の農産物を作ったり出稼ぎに行くこともできるが、労働者の場合は、生活が破綻するからだ。

もっとも、全労働者が連絡・提携を可能とするネットワークが存在すれば、全労働者が残業を拒否する、6時間以上は就業しないといったカルテルも理論上可能だが、現状の労働運動は、それを実現するにはほど遠い位置にある。

したがって、労働力は存在する全量が(利子収入や年金収入などでその必要がなくならない限りは)市場に供給され、労働者同士が競合することが予定され、かつ、資本はそれを何よりも期待している。経団連が外国人労働者の受入や女性の就業促進を強固に推進する唯一かつ最大の理由は、労働者同士の競合を促進することである。

もっとも、外国人労働者のような例外は存在するにせよ、原則として、生物が繁殖する度合いは、その入手しうる食糧の量に比例する。したがって、スミスが『国富論』において論じたように、労働者の困窮は人口の減少を招き、長期的には労働力の価格を適正価格にまで調整する効果がある。

しかし、個々別々の労働者が、そうした価格調整を待つことはできない。人の労働力としての寿命はたかだか40年程度に過ぎず、労働力人口全体の増減のサイクルよりも短いからだ。しかも、外国人労働者や移民の受入といった、労働力供給の調整を妨害するための介入も発生する。

そこで、労働者は労働組合を組織し、可能なら全国規模で、それが困難であっても、少なくとも地域や職場で中小規模のカルテルを組織し、短期的・領域的な労働力価格の調整を行う必要があるのだ。

ユニオン運動の問題

そのため、ユニオン(地域合同労組)運動は、原則としては、非常に有意義且つ必要なものといえる。

企業別組合は、たったひとつの使用者からの弾圧が組合全体の存在を脅かすという意味であまりにもリスキーであるし、2名以上居ないと結成できないという要件も、零細企業では、それなりに高いハードルになりうる。

また、職場でのトラブルの類型として、ある従業員を他の全員がいじめている・搾取しているというケースも多数存在する。組合内部での差別や排除も存在するし、社会的な被差別属性者への攻撃も存在する。そのような場合において、企業別組合の結成は現実的ではない。

ゆえに、ユニオンは、その存在意義を全面的に承認されるべきなのであるが、ここにきて、専従者による利益相反という大問題が発生してしまった。専従者は、ユニオンでの勤務のみによって生計を立てる者であるが、ユニオンからの賃金報酬を増加させるには、その前提として、①組合員を増加させるか、②組合費以外の営業収益を得るか、③いわゆる拠出金のような一時的な収入を増加させるかの3つしか方法がない。

プレカリアートユニオンの事例をよく研究すると、プレカリアートユニオンが、①、②のいずれにも大失敗して、行きついた先が③であったことがわかる。

組織化の失敗

筆者たる前田は、プレカリアートユニオンにおいて、平成28年6月からの組合員なのであるが、プレカリアートユニオンの組合員数は、2017年の夏に300名を超えたのをピークに、以来減少を続けている。組合費の滞納者数も、時を追って増加している。先日は、プレカリアートユニオンの街宣3名に対して、組合員数7名のDMUは、同じ3名をもってカウンター抗議活動を実施した。

このように、プレカリアートユニオンでは、横領など違法な内容のものを含めて、何らかの経済的な対価を得ないと組合活動ができないという者しかおらず、それでさえ3名を超えることがない惨状なのである。

これは、「オルガナイザー」という名目で雇用した某大学客員教授のO氏が然るべき成果を出さず、いたずらに「行動費」を費消する結果に終わったことや、そのO氏が関与するセミナーに相当数の組合員を送り込んだにも拘わらず、何ら成果が出なかったことに起因する。

いわゆるコミュニティ・オーガナイジング・ジャパン関係の取り組みに関係して、プレカリアートユニオンは、中野千暁こと太田曉彦氏や小田川華子氏といった関係者を多数雇用し、セミナー代も何度となく支払い、それら関係物を総計すれば優に800万円を超える支出をしたのであるが、その成果は一切なかった。

組合員の増加なくして、「コミュニティ」の拡大や強化を裏付けることはできないからだ。

また、クリエイトエス・ディー事件では、企業別組合を組織するUAゼンセンを「切り崩す」として宣伝活動に取り組んだが、ついに一人として加入者は来なかった。

営利事業の失敗

営業収益の増加についても、Tシャツを製造販売するなど努力はおこなったが、大した収益源とはなっておらず、その事務作業やデザイン料を加味すれば赤字といってもよいだろう。プレカリアートユニオンの活動に関係する著書や映像作品は多数世に出ているが、いずれも清水直子氏や土屋トカチ氏、佐々木亮弁護士の個人名義によるものであり、ユニオンに収益が還元されている証拠はない。

むしろ、ユニオンはそれらの著書を大量に購入したり、土屋氏に相当額の寄附金を送金するなどしており、ユニオンの活動を題材とした関係者個々人の事業をユニオンが支援し、需要を創造している。それ自体、利益相反行為ではないかとも思われる。

かくして、プレカリアートユニオンの営業収益は些少なものに留まり、到底、ユニオンの会計を支えるまでに至らなかったのである。

拠出金ビジネスの成功

そこで、清水直子氏や中野千暁こと太田曉彦氏が行きついたのが、拠出金という臨時的な争議解決収入を当てこむことであった。

拠出金は、ユニオンとして取り組んだ争議の結果、臨時に使用者から金銭が支払われることになった場合において、その2割をユニオンに納付すべしとする臨時組合費の一種である。もちろん、ユニオンとして、特定の長期的・大規模な争議にばかり費用が投入されてしまう事態が続けば、その中長期的な破綻は明らかであるし、組合員間での不公平感も募るであろう。

しかし、プレカリアートユニオンにおける拠出金の運用には、2つの点で大きな問題があった。

ひとつは、拠出金をより多く得たいという動機に基づいて、プレカリアートユニオンの側から組合員の退職を提案し、資本に雇用を売り飛ばす行為が行われてしまったことである。具体的には、あの引越社事件の野村氏の退職を、清水直子氏は2,000万円の上積みを条件にみずから引越社に「提案」した。

さらには、拠出金を中心に蓄積された組合資産が、組合員の総意に基づいて民主的に運用されず、事実上、会計等を隠蔽した清水直子氏の私有に帰してしまったことである。アメリカ代30万円、宴会合宿代12万円、自宅のカメラ代12万円と、公私混同極まりない。そうした中で、清水直子氏が指名した「執行委員会」の決議によって、清水直子氏自身や中野千暁こと太田曉彦氏の高額報酬が次々と決定され、資金が流出していった。

これらの事実について、プレカリアートユニオンの組合員は何も知らない。全てがヤミの中であるし、それらは、ヤミの中でしかできないことだったのである。

非正規労働者・マイノリティへの差別

そんなプレカリアートユニオンにおいて、非正規労働者への差別という新たな問題が発生した。

上で述べたように、結局のところ、③の方法によってプレカリアートユニオンは利潤を獲得し、収益を確立していた。

しかし、それが組合員の総意にもとづいて決定されるものではなかったがゆえに、清水直子氏らの我田引水という状況の発生を許してしまった。つまり、非正規労働者であるアルバイトには残業代も有給休暇も支払わず搾取の対象とするのに対して、清水直子氏のような役員や中野千暁こと太田曉彦氏、横領行為で知られる佐藤智秋氏といった正規職員は、毎週2.5日程度しか出勤せず、街宣のような汚れ仕事だけは非正規やボランティアに押しつけ、労働貴族と化してしまったのである。

今も、清水直子氏は、非正規労働者を「有償ボランティア」であると主張したり、「個別の業務委託」と主張したりと、その主張を変遷させ言い逃れを続けている。それらは、いずれ東京都労働委員会で断罪される不合理なものであってここで詳論する価値を認めないから省略するが、結局のところは、自分たちの生活や厚生は大事にするが、他者のそれはどうなってもよいという、資本となんら異ならない搾取の発想に到達したのである。

不当な懲戒解雇(統制処分)にあたっての弾圧と差別も、これまた目をむく程醜悪な内容であった。中野千暁こと太田曉彦氏は、LGBT活動家を自称するが、懲戒解雇を決定した臨時執行委員会の場において、被解雇者を「精神障害者」「発達障害者」と断定・診断した上で、「このような人が組合に居ても迷惑だし、本人のためにもならないから、本来は除名処分にするべきだ。」と発言した。

そもそも、この者が精神障害者・発達障害者だという客観的な根拠は何もないのだが、これを受けて、約8名のプレカリアートユニオン執行委員は、諸手を挙げて一斉に賛同した。

それら賛成者は、横領・着服の疑義が浮上している佐藤智秋氏や吉田直希氏、搾取者である中野千暁こと太田曉彦氏、雇用保険の不正受給に指南、関与した社会保険労務士の野木薫・太田美紀氏、静岡支部の仲英雄氏であったが、その全員が、何らかの名目でプレカリアートユニオンから金銭を受領・着服するか、又は宴会合宿に参加するなど利益を得ていた。反対したのは、何ら金銭的な利害関係がない名倉マミ氏だけであった。

すべては利権のための差別という、この世の差別のなかでも特に醜悪な状況が、あたかも連合傘下全国ユニオン・プレカリアートユニオンにおいて現出したのである。

その後もプレカリアートユニオンでは、清水直子氏自らが引き続き組合内で被解雇者が「精神障害者」であるとの流言を吹聴し、別のDMU組合員が生活保護を受給している事実をアウティングし、「生活保護を受給しているから残業代の支払い義務はない。」と主張するなど、目を覆うばかりの違法・不合理な主張と人権侵害が繰り返されている。単に残業代を払わないだけのブラック企業の方がよほど潔い。

このように、プレカリアートユニオン、少なくとも清水直子氏や中野千暁こと太田曉彦氏は、今やその活動目的を社会運動でも労働運動でもなく、自らの利権の維持、組合員や非正規労働者からの搾取へとスライドさせてしまった。そのためには、どのような差別や人権侵害も厭わなくなった。

その姿は、経営権の優越と自負心を背景として、プレカリアートユニオンに加入し声を上げた労働者への弾圧と攻撃を繰り広げ、あの「罪状ペーパー」を生み出した引越社関東を彷彿とさせる。

しかし、引越社はじめ資本多数決の法人は、経営者も大きなリスクを負いながら経営にあたっているのだから、一応は、それらを説明、正当化する余地を見出すこともできる。

しかし、清水直子氏や中野千暁こと太田曉彦氏がプレカリアートユニオンに「出資」した事実はなく、リスクは一切負っていない。それゆえ、組織防衛の必要性や相当性といったものも観念できないのである。残されているのは、「やっぱりおカネが欲しい!」という薄汚れた裏切りと欲望だけである。

かくして、プレカリアートユニオンは資本そのものへと変身を遂げた。

DMU運動の意義

DMUは、これらの状況と事実を踏まえ、それを深く反省しつつ、結成・運営されている。

DMUは、将来にわたって、DMUからの収入だけで生活できるような専従者を置くことはない。なぜならば、置いたが最後、組合員の利益(在職で職場を改善しながら長く働く)と専従者の利益(組合員を金銭退職させ、拠出金で組合に資金をプールして昇給する)が相反し、プレカリアートユニオンと同様の人材売却業者に堕することが予見されるからである。

DMU、もとい前田の労働運動家としての目標は、地上から不当な権力関係を除去することである。

ここでいう「不当な権力関係」とは、法律や契約といった明示的な根拠に基づかない一切の隷属のことである。例えば、あまりにも昔の話になるが、前田が通学した小学校では、授業の時刻に遅れることは許されていなかったが、教師がそれを一方的に延長することは許されていた。

高校では、教師が生徒の将来に介入を繰り広げ、学校としての「実績」獲得を企図してあれこれの策を弄したが、その結果としてあらゆる学校に不合格し、将来を失った友人に対して、学校はあらゆる意味で責任を取らなかった。

職場でも同様である。先日も、5分の無断早退を繰り返した、とある市の職員が懲戒処分にされたが、5分のサービス残業を不問として残業代も払わない企業がいかに多いことか。たった5分のことでも、使用者がトクをする5分は不問、労働者がトクをする5分は懲戒処分といった不衡平が現に存在している。

法や契約によって厳密かつ直接的に規律されない領域では、つねに力関係がそれを規律する。また、法や契約が規律する場合でも、その終局的判断の場である裁判手続への参与に相当額の費用を要する以上、法や契約とて、弱者たる労働者を保護する根拠とはならない。また、最初に述べた理由により、労働者個々人が使用者に優位に立つことはほとんどあり得ない。

そこで、強力な交渉力・圧力手段を有するユニオンの団体交渉によってそれを補完し、法がカバーしない領域においても、労使の対等を実現する必要性があるのだ。また、雇用契約における利益の一方的な侵害を未然防ぎ、それを回復する必要があるのだ。

例えば、郵政の職場では、全逓が事実上崩壊してから、殺人的な深夜勤が導入されたり、休憩室に監視カメラが設置されたりと、狭義の労働条件に該当しないグレーゾーンにおいて、大幅な不利益変更が相次いでいるという。

労働基準監督署が守ってくれるのは、ごく狭義の「労働条件」だけだ。それ以外の、(解雇を含む)法が直接に規律しないグレーゾーンにおいて、無限である資本の欲望、経営の支配欲に打ち克つためにこそ、労働組合は必要とされているのである。

労働者であれば誰でも希望するような、自由で働きがいがある、全人的なコミュニケーションや成長の場としての職場社会は、数値上だけの賃金上昇や有給休暇の義務的消化だけでは獲得することができない。他方で、それを獲得できるか否かが、勤労者としての生涯を全体として検討したときに、それが豊かなものといえるか否かの決定的なファクターになり得るのである。

ところが、既に述べたような利益相反によって、プレカリアートユニオンは、その主体たり得なくなった。すでに京品ホテル事件などを紹介したように、東京ユニオンのような系列ユニオンにおいても、その実態に大した異同はない。

だからこそ、プレカリアートユニオンのような腐敗した自称ユニオン——非弁事業組合とは別個独立のものとして、DMUを建設することが必要であったし、かつ、それで十分なのである。

使用者プレカリアートユニオンへの同情

個人的な思いを吐露するなら、清水直子氏や中野千暁こと太田曉彦氏、横領行為をした佐藤智秋氏の情況は、深い同情に値する。

彼らがもはや労働運動家でも何でもないことは既に示された通りだが、一度は労働運動をすると意を決したものの、やはり金銭がほしくなり、また同期の友人が羨ましくなり、どうせバレないから道を踏み外してもいいだろうと判断したことは、ある意味首肯できるものだからだ。

誰であれ、明日は今日よりも良い生活がしたい。その欲求を否定することは無意味だろう。

しかし、それは、職業選択の自由の行使として、低水準の所得が約束されざるを得ないユニオン専従という立場を離れ、一般企業で、他の大部分の国民と同じように忠勤し、出世と昇給を獲得するために努力をすることによって実現されるべきであり、労働基準法、労働組合法の違反・潜脱といった犯罪行為を正当化する理由にはならない。

何より、野村氏を引越社に売り渡した一件は、非正規労働者からの搾取という問題以上に、労働運動家としての根幹が問われる大問題である。争議を支援したあらゆる人への裏切りであり、どのような事情によっても許されない。

この国の勤労社会に、組合員との利益相反から金銭を漁る非弁ユニオンや、その利権に群がり、「労働弁護士」を自称する非弁提携屋は、もういらない。

DMUは、これら既存勢力の悪弊を排し、労働者の職業的尊厳の保全を唯一の目的とする組合活動の実現に向けて、警察権力や右翼勢力と提携・結託したプレカリアートユニオンの攻撃に屈することなく、原則的な運動を継続する考えである。

 

 

 

 

Print Friendly, PDF & Email

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)