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コンビニオーナー労働の問題が示唆するもの

政治権力による団結権、自治権の否定と封建制

ここでは、むしろ、後者の問題を取り上げたい。

しかし、前者について、現在、コンビニ関連ユニオンを新たに結成し、6月9日の結成大会、そして巨大コンビニ資本との産別的な集団的労使関係という画期的な発明に取り組もうとしていた河野正史さんが不当逮捕されたこと、及び中労委が先日、岡労委・都労委の勇敢な救済命令を破棄したことについては、ここで声を大にして弾劾しておかねばならない。

政府は、中労委命令以降、躍起になってコンビニの労使関係に介入し、「行政指導」の範疇で問題を解決しようと試み、ついにはコンビニ関連ユニオンという「部外者」を排除するための逮捕にまで及んだのであるが、これは、憲法28条が保障した労使関係における集団的自治を正面から否定する策動である。

そして、集団的労使関係(ここでは団体交渉権)の否定の先には、大学の自治・学問の自由の否定(既に始まっている)、次いでは地方自治の否定と、政党などを結成すること(結社の自由)、挙げ句の果てには団結権(労働組合の結成)の否定が待っていることは、理性的な人であれば誰でも理解できる事実である。

その内部の言論や要求を統一的に取扱い、公権力や大企業と渡り合って、民主的な交渉で問題を解決するための一切の枠組みや手続が否定された最果てには、国家と個人との一対一との関係において、圧倒的な格差のもとに生殺与奪が決定される封建制の枠組みしか残っていないのだ。そこでは、ちょうど500年前、「団結禁止法」が制定され、他方で商人同士の同業組合による賃金カルテルが横行していた産業革命当時の英国と同様の無制約な資本主義とそれに対応した生活水準が待ち受けていることだろう。

そのような封建社会は、かつて暴力によって打倒されたものであるが、裏を返せば、暴力以外の手段によって打倒することはできなかったのである。すなわち、封建制への道は、暴力への道に他ならない。第二次世界大戦で日本が国富の4分の1を失ったように、暴力は、我々労働者からも資本からも、あらゆる蓄えや将来、希望を奪い去っていくものだ。「資本」の側にとってみても、長期的には最悪の損失をもたらす。そんな未来へまっしぐらなこの日本で、我々が踏みとどまるには、今すぐに決起するしかないのだ。

金銭の人間性否定機能

さて、コンビニオーナーの過労問題における第二の論点であるが、それは、この問題の非人間性そのものである。

考えてみよう。上記に紹介した、あれほど冷血な本部返答を決定し、執筆したのも、セブン&アイ・ホールディングスに勤務するいち労働者なのである。井坂隆一社長とて、昭和55年入社のたたき上げ、サラリーマン労働者出身の経営者だ。決して、我々とはまったく異なる断絶した他者としての、王侯貴族の延長線上に存在するようなイメージにおける「資本家」、すなわち「敵」とはいえない。

返答文を実際に執筆した本部社員も、恐らくはMARCHクラスを出ているインテリで、普段から多くの店舗を巡回・監督し、本部に報告する業務を担っているに過ぎないサラリーマン労働者であろう。

そんな労働者や、労働者出身の経営者が、誰がどのように理解しても悲惨で、切迫した問題であるはずの新山オーナーの訴えを、「社会の要請に背く」なる言葉で一刀両断する。あまりにも、人間が本来有している共感性、社会性と相反する現象である。

こうした「不自然」な行為を人間に強いてしまうところに、資本、というより資本主義、または金銭が有している、恐ろしい魔力の片鱗を見ることができる。人の一生は時間的に有限で、その能力や仕事にも一定の限度がある。人間関係、とりわけ家族は、代替不可能なものだ。そこで、補い合い、協力し、分業し、而して信頼関係と生活の糧とを獲得するのが人間という存在であるが、資本主義における金銭は、そうではない。

金銭の量は無限であり、資本は代替可能だ。

その金銭や資本が人間の活動目的、レゾンデートルして押しつけられるとき、労働に関係するあらゆる悲惨が発生する。今までに過労死したどの労働者も、あと1日早く使用者がそれを察知し休養をとらせておけば、恐らく最悪の結果は回避できたのであるが、そうはならなかった。なぜか??

いうまでもなく、使用者の視野からは、金銭の量で表現される数値的目標以外のものは、捨象されて何一つ見失われていたからである。労基署に踏み込まれ、マスコミのカメラに追われ、債権者や株主から電話が殺到して通常の事業活動が不可能になり、はじめて、金銭に「呑み込まれて」いたことに気がつく。

世間も株主も、ここでは無責任なものである。普段は、株価を上げろ(既に論じたように、日本では、個人投資家は非常に多い)、生産性を上げろ、配当を出せとあれこれ突き上げておきながら、その目標達成に夢中になった経営者がひとつ誤ると、たちまち自分たちの叱責は棚に上げて経営者を、生来の慾望のカタマリであるかのようにあげつらい、非難するのだから。

金銭と強迫観念

上記の返答文を実際に執筆した本部社員が、もしも(この社会状況を踏まえて)正気で「社会の要請に背く」と書いたと仮定すれば、この問題はより一層明らかになるのである。筆者だけでなく、社会全体として、勤労者の誰もが、そんなことを要請してはいない。それなのに、新山さんという一家をまるごと潰してでも実現すべき「要請」が存在するかのように、その社員や上司には思えてしまっていたに違いない。この妄想こそが、金銭上の数値的目標に対する強迫観念に他ならない。

恐らく、セブンイレブンの内部では、それらは数値的目標として実際に設定されており、内部的には、それは「社会的要請」ということにされているのだろう。ワタミにおいて24時間労働が実際に要求されており、それが、内部的には渡邉社長の私欲ならぬ「お客様の感謝と笑顔」と定義されていたのと同じことである。

もちろん、そうした不当な目標を押しつける職制は経営に強迫されており、その経営は株主たる一般大衆に強迫されている。要するに、対話の断絶、いわば非対話性の中で、国民が相互に金銭で他人を脅かして強迫し、無理を実現しようとして、そのほころびが毎週のように表面化し、その責任を押しつけあっているのである。

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