プレカリアートユニオン「発達障害を抱えた専従者」エイジ氏の記事にもの申す(前篇)

先日、東洋経済オンラインに、『「発達障害男性の同僚」が追い詰められた深刻事情』という記事が掲載された。

執筆されたのは、藤田和恵というライターの方。神奈川新聞の石橋学記者と同様、ユニオン(を自称する方々の)界隈、社会運動(を自称する方々の)界隈の常連さんといった印象の著者の方である(※同じような面々が、同じようなテーマで、仲間内でネタを提供・交換して、いつも同じようなことをずっと書いてるな……という感想を表明したまでで、それ以上の批判の意図はない)

さて、誰が書いたかは良いとしよう。しかし、記事の内容について、果たして本当にこれでよいのかと、私は大変な違和感を抱いた。

具体的には、第一に、そもそも、「発達障害」であるとされている職員のエイジ氏が本当に「発達障害」で、それを”暖かく受け止める”委員長や先輩職員の方々が定型発達者(≒普通の人たち)なのか、という事実関係の問題

そして、第二に、委員長や先輩職員の方々が、本当に、発達障害者を社会の仲間であると考えているのか、という内心の問題である。

「エイジさん」は本当に発達障害者?

大前提として、「発達障害者」として登場されている職員のエイジ氏が、本当に発達障害なのか、記事を良く読んでも分からない、といわざるを得ないのである

この手の記事では、大体、「○○さんは、〇歳の頃、発達障害(ASD/ADHD、など)の診断を受けた。それ以来……」という書き出しが使われるものであるが、本記事では、ただの一度も「診断」というキーワードは出てこない

抽出してみると、「発達障害の特性を持つエイジさん」「エイジさんは発達障害の特性を持っている」「発達障害だという人」という表現が続くだけで、結局、エイジ氏自身が医師による発達障害の診断を受けたのか受けていないのか、受けたのだとしたら診断名は何なのか、全く分からないのだ(「発達障害」という診断名は存在しない)

では、誰がエイジ氏を「発達障害」と判断したのか?

冒頭で紹介される以前の職場でのエピソードでは、「先輩」は、エイジ氏に対し「プライドの高い奴だな」と言うだけで、発達障害と疑われてすらいない。

ところが、ページをめくると、プレカリアートユニオンの委員長(清水直子こと関口直子氏)が、著者である藤田氏に「発達障害の人が専従職員になったんです。取材しにきませんか」と持ち掛けたことが執筆のきっかけであると紹介されているのだ。

そうすると、エイジ氏を「発達障害の人」と最初に認定したのは、医者でも職場の関係者でもなく、実はプレカリアートユニオンの清水委員長であった、ということもあり得るということになる。

清水委員長は「定型発達者」なのか?

他方、エイジ氏を発達障害と認定した可能性もある清水委員長であるが、私は、この清水委員長自身が定型発達者かどうかについても、疑いなしとはできないと考えている。

というのは、私がプレカリアートユニオンの(非正規)職員をやっていた頃、ある執行委員の方から、アリさんマークの引越社と争っていた頃の清水委員長のエピソードを聞いたことがあるからだ。

曰わく、ある日、プレカリアートユニオン会計監査の土屋トカチこと土屋正紀氏と共に、東京都労働委員会での引越社との審理期日に赴いた清水委員長は、都庁のエレベーターホールに設置されているゲートを強行突破したという(!)

つい先日まで設置されていなかったのに、ある日突然設置されたのが気に入らなかったようで、執行委員が理由を尋ねると、曰わく、ゲートの設置に「法的根拠がないから」と清水委員長は述べたという。

このときは、逮捕まではされなかったが、不審者の疑いがあるということで、都庁を出るまで常に警備員がついてきたと、当時の執行委員の方は懐かしげに教えてくれた。強行突破は、当然、引越社の件のその日だけではなく、その執行委員が知る限り、再々に及んだようだ。

私こと、10歳の頃に発達障害(ASD)との診断を頂戴した堂々たる発達障害者であるが、さすがに21歳の頃、初めて訪れた都庁で、ゲートを突破しようという考えは夢にも抱かなかった。

ところで、この行動パターン、じつに発達障害的だと私は思う。

ゲートの設置に「法的根拠」があろうとなかろうと、”空気を読んで”警備員の指示には従う定型発達者に対して、”絶対的な”ルールさえ守る限りは、人間は”絶対的に”自由であるので、ルールではないのであればゲートを突破しても問題ない、と考えるのが典型的な発達障害者だ。

私も、小学生の頃は、下校時刻になると、下校時刻は、ルールであるので、先生の居残り命令も無視して一人下校するといったことは日常茶飯事だった。

しかし、このようなやり方では、社会で就労してやっていくことは到底できない。そのため、多くの発達障害者は、

自分は〜と思うとしても、会社は〜と考えるだろうから、今回は〜しよう

という認知と行動のパターンを徐々に学習していく(ここの、「〜〜としても」、という処理が大変重要である)

そうでなければ、21歳の私も、清水委員長と共にゲートを突破していたことだろう。

だが、この当時の清水委員長は、既に40歳を超えていたはずであるから、仮に例のエピソードが事実であれば、この年代ではなかなか観測しにくいピュアな発達障害の行動パターンが、中高年に至るも残っていたということになる。

”発達障害者”を理解し、暖かく受け止める”定型発達者”という
型通りの演出に見え隠れする矛盾

しかしながら、記事では、「定型発達者」であるエイジ氏を、「定型発達者」とされる清水委員長と先輩職員が受け止め、優しく見守る……かのような記載が続く。

清水さんによると、ユニオンでもパワハラに遭ったという発達障害の人からの相談は相当数にのぼる。会社を追及する側のユニオンとして、こうした案件をただ解決するだけでなく、当事者を仲間として受け入れることに挑戦してみたいと考えたのだという。

「私たち自身が試行錯誤することで、発達障害の人と一緒に働くための“形”を見つけ、(社会で)共有したいと思ったんです」

記事より引用

というのだ。

しかし、仮に、清水委員長にも発達障害の傾向があるとすれば、発達障害者同士が円満に働く”形”を見つけることになり、残念ながら(一般)社会の役には立たないだろう(発達障害者である私としては是非にも知りたいが)

そして、エイジ氏が実は発達障害者ではないとすれば、エイジ氏と円満に働いても、やはり残念ながら「発達障害の人と一緒に働くための“形”」を見つけたことにはならないことになる。

あるいは、(医師以外には絶対に判断できないことであるから、完全な仮定の話にすぎないが)実は、発達障害者は清水委員長のほうで、エイジ氏は発達障害以外の別な精神の病を抱えているに過ぎず、その清水委員長が、あべこべに、ユニオンに入り込んできたエイジ氏を「発達障害の人」と認定し、「発達障害の人と一緒に働くための“形”」を見つけるして専従に取り立てたことが話の端緒であるとしたら……いやはや、この記事は、何を語っていることになるのだろうか。

エイジ氏の”強迫観念”は「発達障害の特性」なのか

最後に、エイジ氏が発達障害者か否かについて、もう一点だけ付け加えたいことがある。

記事中の、エイジ氏が日常会話で「ごめんなさい」を言えない理由のくだりで、

「僕にとっての『ごめんなさい』は、『なんでも言うことを聞きます』と言うのと同じくらい重大なことなんです。相手から『土下座しろ』『殴らせろ』『金を出せ』と言われたら、その通りにしなければいけない。そんなふうに考えてしまうんです」

記事より引用

との(エイジ氏の)説明が紹介されている。

私は、えじそんくらぶなどの当事者団体に参加したこともあるが、こんな話をする発達障害者は見たことがない。

発達障害者が、「ごめんなさい」と謝れないことがあるとすれば、その99%は、理屈的・法的に、自分に非があると思えない(or相手の非より多いとは思えない)から、ではないだろうか。

その結果、先生や上司など、非があろうとなかろうと頭を下げる必要がある目上の方と衝突し、トラブルとなり、最悪の場合解雇問題に発展……というケースは多い。

しかし、エイジ氏の話によれば、「ごめんなさい」の意味が、(発達障害者の多くが忠誠を誓うであろう)国語辞典における定義から遙か遠くに飛躍し、もはや妄想に近い幻影をまとっていることが分かる。

「ごめんなさい」と言えば、自分が「悪い」と認めたことになり、「悪い」者は「良い」者に支配され、服従しなければならない……このような世界観が見て取れるが、それこそ、「そんなルールは存在しない」。

過去に謝罪をめぐるトラウマ体験でもあったのだろうか?ある種の強迫観念に近いものを感じるが、これは本当に発達障害と関係があるのだろうか?

「おかしな人」イコール「発達障害」にさせないために

若者たちの間では、他人のヘンな言動、不快な言動、浮いた言動などを、とりあえず「アスペじゃん」「あいつはアスペだから」と揶揄してみるサブカルチャーがある。

社会において「ヘンな人や不快な人は、すなわち、(何らかの)発達障害なのだ」といった誤解が拡がり、定着することは望ましくないし、何よりも科学的ではない。

エイジ氏及び、著者の藤田氏におかれては、そもそもエイジ氏が発達障害者なのか、仮に発達障害であったとして、そのことと「ごめんなさい」が言えないことは発達障害と関係があるのか、是が非でも、医師の意見を聴いてもらいたいものだ。

後編では、発達障害者である私がプレカリアートユニオンでオープン就労をしていた頃に受けたプレカリアートユニオン役員らによる差別発言不当解雇事件に関連させながら、本記事の真意や、そもそもプレカリアートユニオンが労働あるいは社会を語ることの是非について論じたい。

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