「救済」を、さもなくば「制裁」を!

労働運動をやっていると、当たり前だが、労働運動の意義や法的な位置づけについて考えることになる。

特に、DMUは、組合専従というものを置いていないので、私こと前田を含む組合員は、みな無償で活動している。生活のための組合活動ではない。だからこそ、いきおい、組合活動の意義について考えざるを得ないのだろう。

法的には、組合活動は組合員の労働条件の維持向上を主たる目的とするものであるし、また、そうでなくてはならない。しかし、組合活動をおこなっても、組合員の労働条件が維持向上しないこともあるし、むしろ、会社の報復や弁護士費用によって、生活が破壊されることもある。

そういう時、組合活動の意義は、どこに求めることができるのだろう。

組合活動の結果として労働条件が向上するとき、組合活動の意義は、「救済」と定義して、何ら問題ないと思う。すなわち、労基法その他労働法制を適切に適用すれば実現されていたはずの権利を、労働組合の力と知恵を借りて、労基署の介入なども得ながら現実に獲得する営みは、「救済」と呼ぶに値するだろう。

しかし、前記のように、組合活動の結果として生活が破壊される場合、特に、その後の裁判でも敗訴するなど、争議に「敗北」することもあり得るのであるが、そうした場合、立ち上がったことは無意味であったと認めるしかないのだろうか。

この問題について考えていたところ、あることに気がついた。労働組合の活動は、使用者に「制裁」を与える効果もあるではないか。

例えば、パワハラやセクハラの救済のみを内容とする団体交渉では、法的にも慰藉料請求が認められにくいこともあり、金銭だけで見れば、組合費の払い損で終わることが多い。

さりとて、パワハラやセクハラの具体的内容が記されたビラや記事というのは、とにかく、制裁的な効果が絶大である。

次に引用するのは、東京ユニオンという使用者に対して立ち向かった労働者が、週刊新潮の取材を受けて書かれた記事だが、「ハプニングバー」というキーワードのほか、東京ユニオン職制者による具体的発言のインパクトが、とにかくものすごい。

 

 

この争議がどのような結末を迎えたのかについては、残念ながら、続報がない。

しかし、この「女性ユニオン東京」が、東京ユニオンの姉妹団体である「プレカリアートユニオン」(東京ユニオン関口達矢氏の妻・清水直子こと関口直子氏が経営)に大会挨拶文を送っているところを見ると、労働組合同士の利害関係のなかで、巨大な全国ユニオン資本の前に投降し、この女性書記は見捨てられてしまったのかも知れないと思う。

それでも、この記事の威力は未だ絶大であるし、いかなる争議でも、原則として、内容が真実に基づく限りにおいて、同趣旨のビラやウェブサイトを、会社と会社役員の名前入りで公表できるのだ。

昨今の情報社会において、そうしたビラやウェブサイトの制裁的効果は、相当大きいに違いない。

例えば、労働者の権利をなげうってプレカリアートユニオン資本のゼニカネにすがりつき、本人訴訟で立ち向かった当組合のアルバイトに断罪された某ブラック労弁は、インターネットマーケティングを大の得意としているが、有名になりすぎたが故に、同業者である弁護士の間からも、そのブラック労弁に対する冷笑の声が漏れ聞こえてくる。

マーケティングが得意で、インターネットで目立っていればいるほど、不祥事が明るみに出たときのダメージは大きい。使用者にとって、今日まで財産だったものが、ある日を境に、突如として負債に転化する。

このトリガーを、その使用者に搾取され、苦しんできた労働者自らが引くことができるとしたら?

団体交渉で、または裁判所で救済されなかったとしても、それだけで絶大な果実といえるのではないか。現代では、ほぼ全ての事業者において、マーケティングなくして商売は成り立たない。

かのヘンリー・フォードの言葉に曰く、

賃金を払うのは雇い主ではない。雇い主は、ただ金を扱っているだけ。賃金を払うのは顧客である。

It is not the employer who pays the wages. Employers only handle the money. It is the customer who pays the wages.

である。

農業の世界でさえも、農協を介しない直販へのシフトが進んでいるというが、直販であるということは、労働者である消費者のレピュテーションが、事業の成否を、直接左右するということでもある。

ここにおいて、搾取、弾圧された労働者と労働組合は、消費者大衆への働きかけを介して、ほぼ全ての使用者の、違法な(公表しても名誉毀損に該当せず、世論を動かすに値するような)搾取と弾圧を前提とする「ビジネスモデル」を、その手で直接解体することができるのだ。

この「解体」は、団体交渉権ではなく、団結権に基づく組合活動権及び表現の自由として認められた情宣活動によるものである以上、使用者が団交上の要求に妥結するか否かとは、ある意味で関係がない。

畢竟、労働者と労働組合は、ビラやインターネットに書かれて困るような事柄を前提とする、腐臭漂う「ビジネスモデル」を、その手で、直接、解体する権利を与えられているのである。

とはいえ、かのプレカリアートユニオンがそうであるように、ビジネスモデルの破滅的解体を目の当たりにした使用者は、得てして、最後の悪あがきとして、どうしようもないスラップ訴訟を仕掛けてくるものである。

だからこそ、労働者は、物理的にのみならず知識的にも団結して、これを撃退しなければならない。そのため、DMUでは、本人訴訟と判例の研究に力を入れている。

その先に、「救済」か、さもなくば「制裁」の労働運動の完成が見えている。

労働者としての権利を妥協なく取り戻すか、または、労働者を侮辱するあらゆる「ビジネスモデル」を、完膚なきまでに破壊、解体するか。前者が叶わないまでも、後者が得られれば、十分、「立ち上がってよかった」と思えるのではないか。

しかも、その「解体」は、プレカリアートユニオンに、当組合の主張に触れた労働者が差し出した脱退届が山積し、自慢の「解決」も月3件にまで衰微しているように、直接的には、労働組合の情宣活動に共感した消費者大衆、及び、良心ある取引先の手によってなされるものである。

それゆえ、そうした「ビジネス」の崩壊は、労働組合による直接的な「営業妨害」の結果としてではなく、市民社会の総意に適う、市場参加者による個別的選択の総合的な結果として評価しうるのである。

市民社会に内実が知れ渡ったとき、そこで不必要であるとされたビジネスは、消費者たる市民の総意によって、解体される。

労働組合は、職場だけでなく、市場経済そのものを民主化する力さえも秘めているのである。

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