ある人から、オウマーこと西村氏の『破壊的カルトとして「NHKから国民を守る党」を考えると。 』が、プレカリアートユニオンの現状にそっくりであるとの指摘を受けた。
そこで、氏のアドバイスに従って、「NHKから国民を守る党」を「プレカリアートユニオン」に、「立花孝志」を「清水直子」に置き換えてみたら、とても面白かった。
しかし、「プレカリアートユニオン」はカルト宗教なのだろうか。
だとするならば、「信者」…例えばBことB’や佐藤智秋や武内惇や土屋トカチは、何を夢見て、反対派組合員に公安警察を差し向けたり、『罪状ペーパー』を事務所に掲示したり、ウクレレ奏者上がりの胡散臭い特定社会保険労務士を専従にしたりするのだろうか。
清水直子が「信者」に提示するロマンはただ一つ。「ブラック企業と闘う」である。たかだかブラック企業と闘う運動のために、違法行為に手を染めるだろうか。
ユニオン業界は、かつて首都圏青年ユニオンが代名詞だったように、日本共産党支持者に圧倒的に多かった。ブラック企業に勝ちたいのならば、清水直子みたいな胡散臭いオバサン(※1)ではなく、新聞記者も弁護士も支援学者もいる左派系に行ったほうが成功率が高いに決まっている。
しかも、日本共産党のユニオン運動には、ブラック企業の経営姿勢に対する疑問や、労働者の声を反映させるシステムに対する疑問等、それなりの「正義」が存在する。共産系ユニオンの運動の先には、まっ赤っ赤な産業社会おっとっとリベラルな産業社会という理想がある。
しかし、清水直子のユニオン運動は、自分が中央大学卒業時に煮え湯を飲まされた「恨み」であり、ブラック企業と闘った後に何かがあるわけでもない。清水直子自身に変えたい職場があるわけでもなく、四大を出たのに褒めてもらえず、五大紙だけを受けたら全部落ちたという他人と共有しにくい「怨念」がエネルギーになっている。
私は随分と清水直子のもとで働いたが、彼女が労働の理想を語った記憶がない。
……そのまんまではないか!文は続く。
プレカリアートユニオンを知り、引越社事件解決後、快進撃を続けるあたりから、自分はこの団体が、プロレス団体のFMWに見えて仕方がなかった。
怪我でプロレス界を放り出され、風俗業で失敗し満身創痍の中、自分と同じどっかをクビになったポンコツレスラーや他所のオーディションを落っこちた女子プロ予備軍、素人同然の格闘家をかき集め、FMWを結成。
内容も、女子プロレスあり小人プロレスあり異種格闘技あり、パンダ着包みのレスラーがウルトラマンと戦ったりでバラバラ。最後に大仁田厚が豪快に有刺鉄線に飛び込むデスマッチを見せて、徐々に人気を獲得。ついに「有刺鉄線電流爆発マッチ」で馬場・猪木と並ぶメジャー団体にのし上がる。
自分はプレカリアートユニオンがオウム真理教に見えない。清水直子がターザン後藤に、B’がサンボ浅子に、佐藤智秋が里美和に、Aが工藤めぐみに見えてしまうのだ。
大仁田厚はある時期から、試合後に叫ぶようになった。
「FMWはファミリーなんじゃい!」
以下はあくまでも推測。
カルト宗教には必ず理念がある。しかしプレカリアートユニオンには、人を犯罪に駆り立てるような理念がない。
しかし何故「理念なき」プレカリアートユニオンは、カルト集団のような行動がとれるのか。
プレカリアートユニオンを「ファミリー」と考えると、カルト宗教並みの犯罪行為をやってのける理由も分かる気がする。
FMWもプレカリも、どちらも中はバラバラである。デスマッチにアメリカンスタイルに女子プロレスにサンボにキックに、いや、「信者」に右翼にウクレレにデリヘル経営に。トラックの運ちゃんに女衒にD社に社会保険労務士にアンパンマンにN国支持者(※執行委員吉田直希氏)に。
しかし、彼ら彼女らは全て「はぐれもの」で「社会から相手にされない」ところを、大仁田厚ならず清水直子に拾ってもらった。
世間から爪弾きになってつらい思いをした人達が、同じ境遇だけど元全日ジュニアヘビー級チャンピオンならぬ五大学卒の清水直子の下、ファミリーを形成する。
メンバーの大半にとって組合役員なんて夢のまた夢。そんな地位にしてもらった清水さんに感謝し、清水氏に悪いところがあっても目をつぶり、批判者に盗聴器を仕掛け、スラップ訴訟の証拠保全につとめる。
今の自分には、それしか思いつかない。(以上、翻案・引用元)
いずれにせよ、弊所は、生活保護者への差別をはじめとしたプレカリアートユニオンの人権侵害を許すつもりはない。それによって利益を受けた経営・職制ら全員に責任を取ってもらうまで、徹底的に糾弾しつづける。
しかし、ここで指摘しなければならないのは、プレカリアートユニオン・ファミリーという、悪魔のような人権蹂躙者の集団を生んでしまったのは、彼らを、彼らが最初に”社会”を訪ねたときに”社会”の内側に入れてやらず、”はぐれもの”に仕立ててしまった、私たち自身なのである。
悲劇を繰り返してはならない。あらゆる差別と疎外の解体に向けて、運動を続けたい。
(※1)原文では「オッサン」となっているので、このような表現を採用した。